宮城


2011.6.17-6.19(震災から約3ヶ月)
<愛知ボランティアセンター被災地支援活動に参加>

6月17日、17時半、仕事を定時であがり、集合場所の東別院へ向かう。地下鉄の駅トイレで着替え、コインロッカーにスーツ等をしまう。午後6時、東別院到着。
今回は90名ほどが参加するらしいが、ほぼ集合している様子。参加者の年齢は様々で、若い学生からオジさんオバさんまでほぼ満遍なくいる。女性も3、4割いるだろう。瓦礫撤去は男が中心で、女性陣は小学校での炊き出しなどを行うことになる。

19時、バス2台と、支援物資をのせたトラックで、東別院を出発。バス内で自己紹介。ほぼ全員が初対面だ。それぞれが今回の活動への参加動機などを話す。自分は震災後にどうも涙もろくなった感があり、話している最中に、ややつまりそうになってしまった。参加者は、消防士や看護士、ラジオのアナウンサー、酒屋、主婦、大学生など、様々。年齢も職種もまさに多種多様で、なにか、「村」の大人全員で東北の支援に行く、というような感じさえする。

21時、静岡県牧ノ原SA。
静岡のお茶からも基準を超える放射性物質が検出されたとニュースになっていたが、ここからバスで通り抜けていく日本各地が、放射能の影響を受けていると思うと、とてもつらく重い気持ちになった。

23時、神奈川県海老名SA。ここから東京まで30分程度の場所だ。被災地へ行く今、東京の街をイメージすると、それがすごく遠い世界のように思える。

日付が6月18日に変わった深夜2時20分、上河内SA。栃木県の中心。いよいよ東北へ入る。次は福島県。
外は霧雨。


深夜3時20分、福島県に入った。白河の手前付近を走っている。
高速道路の電子案内板によると、外は17℃、風速1M。
周りはみな眠っているだろうか。カーテンが閉じられた暗いバス内で、前のフロントガラスから、前を走る車の赤いライトだけが見える。
映画館のよう。これは、福島原発での事故を撮った、重い映画であろうか。ただ、フィクションではなく、今まさにその暗闇の只中を通り抜けている。ぼんやりと霧がかった暗い闇を、バスが進んでいる。

深夜3時55分。郡山インター付近を走っている。西には猪苗代湖、東には福島第一原発のある大熊町がある。ここから福島第一原発までは50km程度だろう。
避難を余儀なくされ家に帰れない人々、原発で決死の作業をしている人々が、まさにこの場所にいる。

4時、本宮通過。車の流れは相変わらずスムーズだが、数は多い。トラックと乗用車が半々くらいだろうか。

4時20分、外が白く明るくなってきた。曇天。

4時45分、福島県国見SA。SAの食堂で喜多方ラーメンを食べる。深夜に食べるラーメンは、生き返る心地がする。

宮城県に入り、少し仮眠。

高速を降り、広い平野を進む。バスの右手側には、津波の瓦礫が点在している。左手側には津波が来ていないようだ。
三陸の山の道中には、家の屋根にブルーシートがかかる家は多い。半壊だろうか。

山から、海岸近くに抜ける。光景が一転した。

全てが津波で流され、壊滅的な状況。延々と、何もなく、瓦礫が散在しているのみ。
津波はこんなに内陸部まで襲ったのか。
町一つ分とは、あまりにも広大な範囲。コンクリート造の建物が、躯体だけになり、ポツポツと残されているだけ。
言葉にできない光景。ただ見ることしかできない。

防災対策庁舎へ。3階建ての鉄骨造の建物で、骨組みだけが残る。そこへ、津波で流されてきたものが、たくさん引っかかっている。とてつもなく悲しい光景だった。

この庁舎では、一人のスタッフが津波の来る最後まで避難のアナウンスを続け、亡くなった。
ボラセン全員で黙祷。

海の臭いが鼻につく。魚などが腐ったりもしているのだろう。
一ヶ月前にも着た人は、その時の町と、今の状態は何も変わっていないとのこと。
とにかく、これだけの範囲が被害を受けているのだから、とてもすぐには復興できないだろう。
そもそも津波の来るこのエリアに、今後人が住むこと自体、避けるべきことなのだろう。

道中に見た建物の軒下には、ツバメの巣。親ツバメが飛んでくると、4、5羽の子ども達が大きく口をあけ、食べ物をねだっている。
大災害があろうとも、自然は変わらず、生きようとしている。


10時、小泉浜ボランティアセンター「浜セン」へ。この南三陸町の「名足」という町で、活動を行うことになる。


「浜セン」の拠点

自分の勝手なイメージで、「浜セン」の建物を想像していたが、全くそんなものはなかった。津波にあい、骨組みだけになった3階建ての建物、その1階のピロティ部分が拠点だ。しかし、たとえ屋根と骨組みだけの建物でも、「拠点」になり得ていた。不謹慎かもしれないが、この骨組みだけになった建物でも、こうして人々の復興への拠点として使われていることに、建築の原点をみているような気さえした。

作業は、瓦礫の撤去。海沿いの建物は、すべてが跡形もなくなっている。あるのは、コンクリートの基礎部分のみ。
まずは大きな鉄の瓦礫の移動作業。重機が足りないので、少しずつ人の手で行うしかない。かなりハードな作業だ。
が、午前中だけでも、鉄の山が出来上がった。
近くにいた地元の人の話しも少し聞くことができた。昔から町に住む人でさえ、今回の津波は今までに見たことのないものだったようだ。

昼休憩。海沿いで、持参したカロリーメイトを食べる。リアス式海岸の風景は、本当に美しい。この穏やかな海が、津波となり、このような町の姿に変えてしまったことが、全く信じられない。海は、あまりにも穏やかでやさしい様子だった。
まだ休憩時間があったので、一人で防波堤の先に行き、海へ向かって黙祷。

午後の作業は、瓦礫を材料ごとに分類しながらの移動。
鉄、木材、コンクリート、プラスチック、ガラス、陶磁器、家電など、一つの家のあらゆる材料が混在している。元の状態を思うとあまりに無惨だが、とにかく作業として、無心でやった。出来る限りの力を出し切ろうと思って作業を続けた。後になって振り返れば、もう少しみなで会話などしながらやればよかったとは思うが、その時は、目の前の瓦礫撤去作業しか考えられなかった。少しでも手を抜けば、後悔すると思った。




16時、作業終了。短い時間だが、目に見えて、片付いてはいる。全体の中の、ごくごく一部ではあるのだが。

作業終了後、小泉浜のボラセンの方々が、愛知から来た僕らに、カレーライスをごちそうしてくれた。レトルトカレーだが、めちゃくちゃうまかったのは言うまでもない。本当にうまかった。旨すぎて、泣きそうになったが、コレはいかんと、めちゃくちゃ早食いでカレーを食べ切った。「カレーは飲み物」と言ったホンジャマカ石塚ばりのスピードであった。

少し気になったことがある。
僕らは数十人でワーと押し掛け、みなで瓦礫撤去をした。休憩も一緒にとり、帰りもワーと一斉にいなくなった。しかし、その間もその後もずっと、地元の人たちは、ただ静かに作業を続けている。ここに、実際に被災した人と、ボランティアとの、大きな境を感じた。ほんのつかの間のボランティア活動が、本当に「支え」になってるのだろうか。
僕は、また来なければいけないと思う。たとえ方法、やることは変化していっても、とにかく「続けよう」と思った。



17時、名足を出発。
帰りのバスはさすがに疲れて、寝続けた。いや、出発後しばらくは、腹の調子が悪く腹痛と戦うこととなった。車の渋滞でSAに着くのも遅れ、バスの中での格闘は、気を失うかと思うほどであった。SAに着いた時には、顔面蒼白で、何人もの人たちに心配をかけてしまった。普段から運動をしていないツケが、ここに現れたのだと思おう。いざという時には、体力がものをいうのだ。反省しよう。

名古屋まで、とにかく寝続けた。6月19日の朝8時、東別院に到着。荷物の積み降ろし、報告会の後、9時前に解散。
喫茶店でメモを記し、11時過ぎ、天白区の実家に帰宅。

個人では動く術がわからなかったので、今回の愛知ボラセンの活動に参加できたことに感謝したい。
そして、実際に行ったことを無駄にしないためにも、周りにこの事を伝えていきたい。